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第三課 永遠の保持
Q救われた人は、その救いを失って、救われていない状態に戻って、滅びることがありますか。
A人は本当に救われたなら、決して滅びることが出来ません。キリストを信じる者は救われたので、とこしえに安全です。このすばらしい真実の証拠に関して、聖書の以下の七つの個所に書かれています。(ほかの同じような個所もたくさんあります。これらの個所を一つ一つていねいに勉強してください。
(ヨハネ 10:27-29 ) キリストの言われたこれらのことばに注意してください。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、」この真実の上に堅く立ってください。これはキリストの無条件の約束なのです。キリストの羊と呼ばれる人は決して一人も滅びることはありません。キリストも父である神も信者を守って下さることにも注意してください。
(ヨハネ 5:24 ) これらのことばも主イエス・キリストのことばなのです。キリストは、キリストのことばを聞いて、キリストを遣わしたお方を信じる者が永遠のいのちを持って、永遠にさばきに会うことがない、と約束されました。もしイエスを信じる者がその救いをいつか失うことがあるとしたら、神の御子息イエスはこの約束を果たさず、偽り者になるのですが、イエスは偽ることの出来ないお方ですから、ご自身の約束は全く信頼できる約束なのです。
( ヨハネ 3:36 ) 「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」この節には、「御子を信じる者はいつか永遠のいのちを持つかもしれない」とは書いていないことに注目してください。キリストを信じる者は、現在永遠のいのちを持っているということです。さて、「永遠」という期間の長さはどのぐらいですか。確かに、とこしえに、終わりのないことなのです。
( ローマ 8:38-39 ) 聖書に書いてあるとおりに、「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今ある者も後に来る者も、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」それゆえに、キリストを信じる者が自分で神の愛から身を引き離すことも出来ないのです。キリストに救われた者はまことにとこしえに保持されています。
( テモテ第二 1:12 ) この節で、この手紙を書いたパウロは、キリストが彼の任せたもの(パウロの魂)を守ることがお出来になると確信していた、と書いてあります。ヨハネ 6:39 で、神がキリストを信じるすべての者の救いを守るという責任をキリストにお与えになったと教えているのです。キリストは救われた人の救いの創始者であり、完成者であられるのです(ヘブル 12:2 )。
(ユダ 24 )主イエス・キリストのほかに、クリスチャンを、救われた状態から落ちない(つまづく)ように守って、天国へ無事に行かせる方はありません。クリスチャンは初めに自分の努力で救いを得ることは出来ないと同じように、自分の努力でその救いを保つことも出来ないのです。しかし、キリストはお出来になるお方なのです(ペテロ第一 1:5 )。
(ローマ 8:30 ) 「義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」キリストを信じるすべての者は天国へ入る前に、朽ちることも汚れることも出来ない永遠の体を神から頂きます。クリスチャンたちは、まだその「栄光」の体を持っていなくても、そのことは神のみことばに書いてある確かな事実なのです。言い替えれば、キリストを信じている者が将来に天国へ行くことは、その者がすでに天国に入っているのと同じように確かなことです。
クリスチャンの救いの保持という主題に関して、以下の点を考えてください。
※ クリスチャンは罪を犯しても、自分の救いを失うことはありません。キリストはすでにその人の過去、現在、将来の罪のさばきを受けられました。神はそのさばきを二度も要求されることはありません。キリストは私の罪のために死んで下さったので、キリストを信じている私は自分の罪のために死んで、さばかれる必要はありません。正しい審判者である神は、キリストを信じる罪人をお赦しになります。
※ けれども、クリスチャンは罪を犯すとき、それは天におられる父なる神に対して罪を犯しているのです。そして、その罪を言い表すまで(ヨハネ第一1:9)、父とご自分の子との間の幸いな交わりは破られるのです。審判者である神とキリストを信じない罪人との間の関係を、父なる神と罪の中にある子との間の関係と比べてください。最初の例では、罪の結果は死と地獄です。二番目の例では、罪の結果は交わりの中断なのです(ヨハネ第一 2:1-2)。
※ クリスチャンは罪を犯しても、罪の結果を経験しないということはあり得ません。もし、神の子になった救われた人が父なる神に従わなければ、神の懲らしめを招くのです(ヘブル12:6-7)。父は、その人が悔い改めるために、悲しみあるいは苦難をお使いになるかもしれません。ある場合には、神はあるクリスチャンの一生を終えさせて、天国へ行かせられるかもしれません。その人の体が死んでも、その霊が救われたのです(コリント第一 5:5)。
※ クリスチャンは罪の行為を犯すことが出来、そしてそうすることがありますが、神に救われた本当のクリスチャンは連続的に罪深い生活をすることはありません。クリスチャンが罪を全然犯さないわけではありませんが、救われた人が罪を犯すのは少なくなります。クリスチャンの救いの保持は、罪を犯す許可ではなく、むしろ罪を犯さないための動機のはずです。
※ 聖書には、人が自分の救いを失うことがあるということを教えているように思われるいくつかの節があります。しかし、ていねいに調べれば、これらの節がクリスチャンであるふりをしているだけの人たち、あるいは救いの道を知ってもそれを拒絶する人たちに関する節であることに気付くのです。聖書には、まことに救われた人がその救いを失うことがあり得ると教える節は一つもありません。